第一章 千秋の暮らし
ドクターK 著
ここは関東地方で東京に次ぐ日本で2番目の大都市―――。
繁華街からは遠く離れた下町の住宅密集地の一角、とある老朽化した文化アパートの二階に、少女の暮らしはあった。
まるで前時代的な安っぽいこの建物は、お粗末とはいえ鉄筋構造の2階建てである。そして四部屋からなる二階の、階段のすぐ手前の部屋で、彼女は父親と二人きりで暮らしていた。
千秋は現在十四歳。近所や学校でも評判の類稀な美少女だ。今時の中学生には珍しく、いつも隣近所への挨拶を忘れない朗らかで礼儀正しい彼女は、学年でもトップクラスの利発さを兼ね備えていることでもご近所に知られている。が、まだ子供っぽさの残る風情や小柄な身体に似合わず、脚が長くて、50メートル走では学年女子で一番であることは以外と知られていない。控えめでおとなしい性格だからだ。もしも彼女が学校のどこかの運動部に所属していたなら、即レギュラーになれるだけの運動神経や資質も充分ある。何しろ体育の成績はいつも5段階評価の「5」である。
が、少女が進んで入部したのは「手芸部」だ。女性の社会進出が目覚しい今では、時代にそぐわない地味で小さなクラブだが、家庭的な彼女は、週二回の部活動だけでなく、自宅でも手芸を嗜むほど、編み物が大好きな少女でもあった。
千秋のその少女らしからぬまでの淑やかさと可憐さ故に、彼女に恋してしまう男子生徒たちも多い。が、彼女は何故か好きな相手がいるわけでもないのに、そういった男子たちからの告白やデートの誘いを断りっぱなしだ。
中学生とはいえ、最近は肉体の発育も早いせいか、少年少女たちの話題は実にませたものだ。既に彼女のクラスメートの中には、年上の若者たちとの交際でロストバージンを経験している者たちも何人かいる。しかし、好奇心旺盛な思春期の少女たちが数人集まれば、必ず盛り上がるその手の会話に、彼女は決して加わろうとはしなかった。仲の良いクラスメイトたちから見ても、彼女はとても純真な女子中学生だったのである。
そんな千秋は、今日も部活を終えた下校の途中、近所のスーパーに立ち寄って夕食の買い物を済ませ、文化アパートの二階の角部屋にある自宅の小汚くて狭い台所で、せっせと夕食の準備に取りかかる。清潔好きの彼女ではあったが、築後二十年以上が経過したボロアパートの台所は、いくら少女がこまめに拭き掃除を繰り返したところで、以前の住人たちが長年に渡って染み付けた黄ばみやシミが消えてなくなることはない。
肉体労働を終えて帰ってくる父親の為に、こうして千秋が料理を作り始めたのは、今から3年前の小学校5年生の頃。母親が病気で他界してしまったからである。
彼女にしてみれば余り思い出したくもない話であるが、今のささやかな暮らしが幸福に思えるほど、その頃の彼女は不幸の連続であった。そもそも彼女の家庭はごく一般的で、3LDKのマンションに両親との三人暮らしであった。ところが母親が亡くなった直後、父親が親友の借金の連帯保証人になっていたことから、住んでいたマンションを差し押さえられてしまったのだ。
勿論、二人が暮らしている以上、突然そのマンションから追い出されることはない。
が、このことは千秋にとってもショックだったが、父親にとっても相当なショックだったようで、荒れた彼女の父親は酒とパチンコに溺れる自堕落な生活を繰り返すようになっていった。果ては少女が少しでも父親である彼に注意をすれば、あれ程可愛がっていた一人娘であった彼女に、暴力を振るい始めるようになったのである。
この物語のもう一人の主人公である彼女の父親の名は武夫。その当時はちょうど四十歳だった。工業高校を卒業してから、内装建築の仕事に従事し、近年では七人近くの従業員を雇える程度にまで順調な仕事ぶりだった。それが彼の自堕落な生活の為に仕事が減りつづけ、従業員たちは四散してしまい、あっという間に仕事の注文が一件も来なくなってしまった。しかも多少の貯えも完全に底を付いてしまったのだ。
ここに至っては、もはや彼も働かない訳にはいかなかった。しかし、内装関係の下請け業者だった彼に、一度失ってしまった信用は二度と戻ってこなかった。そうこうしているうちに裁判所を通して、差し押さえられたマンションからの退去命令が出され、今からちょうど2年前に、千秋がちょうど小学校を卒業するタイミングで、現在のアパートに引っ越してきたのである。
現在、武夫は、昔の知人の紹介で、建設会社の土木作業員をしている。内装建築の仕事も結構な力仕事であったが、四十歳を過ぎてからの土木関係の肉体労働はキツい。しかも、収入は以前の半分にまで落ち込んでいた。ひとり娘との二人暮しとはいえ、こんな狭くて古いボロアパートでないと、とても生活のやりくりができないのだ。
ところで、そんな180度変わってしまった質素な暮らしだが、千秋にとっては幸福とまでは決して呼べないが、完全に不幸が通りすぎたような、このままいつまでも続いてほしい平和な日常として受け止められるものだった。というのもそれは、以前のように自棄になった父親が、酒に溺れて自分に暴力を振るったり、家の中で見境なく暴れなくなったからに過ぎない。
とは言え、そんな父親の生活態度を落ち着かせるために、中学二年生の少女にとっては、余りに痛々しい「努力」というものが、今も必要となっている訳なのだが‥‥。
四十を過ぎて再びキツい肉体労働に就いた父親の為に、千秋は今夜も家計をやりくりして、「精」のつくおかずをたくさん用意する。
梅雨明けも間近なこの時期、風の通りの悪い台所での調理仕事は過酷だ。既にTシャツとキュロットスカートの普段着にエプロン姿の少女は、額に大粒の汗を浮かべながらも、せっせと夕食の準備に余念がない。しかし慣れたもので、今では3品程度の料理を作るのに、約一時間ほどである。そもそも家庭的な彼女は、料理の腕も確かなものだったのだ。
やがて夕食の調理を終えた少女は、ガスコンロの火を止めて、配膳の支度に取りかかる。六畳の居間に立てかけてあった木製の「ちゃぶ台」を組み立て、そこに茶碗や皿を並べ始める。
さして大きなサイズとは言えぬこげ茶色の食卓を広げただけで、居間はとても窮屈になってしまう。マンションから運び入れた家具類が大きすぎるせいでもあるが、父娘だけの暮らしとはいえ、あきらかにこの文化アパートは狭すぎた。何しろ縦長の空間が、ただ単に「ふすま」だけで六畳の居間と四畳半の二室に隔てられているにすぎないのだ。
それでも少女は、既に2年近くも暮らしているせいか、こんな狭い環境にとても慣れている様子である。機敏に台所と居間を往復し(所詮はわずか数歩の距離でしかないのだが)、あっという間に食卓に料理を並べ終えてしまった。
時計はちょうど7時だ。父親の帰宅もそろそろだ。
居間にようやくと腰を下ろした少女は、通学カバンの中から、手芸棒と網かけのサマーセーターを取り出す。テレビすらつけることなく、物静かに編み物にふけ始める。中学生ともなれば、歌番組のアイドルやトレンディードラマに熱中する年頃でもあるのに、彼女の暮らしの中にはまったくそんな気配は見られない。本当に控えめなおとなしい少女なのである。
しかし、地味な趣味やそんな性格に反して、彼女は元気で明るい。スポーツも本当は大好きなのだ。ごく普通の中流家庭に育っていれば、彼女はきっと、その小柄な体型に似合わずにバスケットボール部に所属していたかもしれない。
が、少女の現実の暮らしはここにある。このボロアパートの二階の窮屈な端部屋に。そして、千秋は決してスポーツ部に所属できない。どうしてもこれ以上、学校生活で体力を消耗できない「ある事情」があったのだ。勿論、クラスメートや周囲の人間たちは、それを炊事・洗濯などの「家事」であると解釈しているのだが‥‥。
やがて「ドシドシ」と誰かがアパートの階段を上がってくる音が、少女の耳に聞こえ始める。その足音で少女は、父親の帰宅にすぐに気付いた。父親は今日もまっすぐ家に帰ってきてくれたのだ。仲間たちと飲み屋に寄らずに。
「千秋―っ、帰ったぞー」
玄関のガラス戸をガラガラと開けて、開口一番、少女の父親はそう叫んだ。父親は何かと声が大きい。
「おかえりなさい、お父さん」
少女はそう言って嬉しそうに父親の帰りを出迎える。すぐに玄関に立って、父親が手に持っている作業着の入ったショルダーバックや弁当箱、水筒を受け取る。父親は玄関の壁と下駄箱に手を掛けて、窮屈そうに革靴を脱いだ。父は今日も会社でシャワーを浴びて、ラフな格好に着替えて帰ってきたのだ。
「ふうっ、今日も暑くてキツかったぞ」
そう言いながら父親は、娘の頭の上に「ポン」と手のひらを被せるように乗せる。小柄でスリムな彼女と比べ、父親の方はガッチリとしていて背も高い。まさに力仕事には打ってつけの体格だ。おそらく千秋は、彼の実の娘にもかかわらず、母親の特徴ばかりを受け継いでしまったのだろう。周囲からも美人と評され、いつまでも若さを失わなかった母親の。
「ああ、もう腹がペコペコだ。今日のおかずは何だ?」
「うん、今日はすごく暑かったから、お父さんもお仕事大変だったと思って、若鳥の唐揚とトンカツを両方とも買っちゃったわ! 冷奴もよ!」
「おおっ! そりゃご馳走だ」
父親はまるで子供のように嬉しそうな笑みを浮かべて、娘が用意した居間の座椅子に腰を下ろした。少女は間髪入れずに、父親の為に冷えたビールを用意する。あらかじめコップまで冷蔵庫で冷やしておくという細やかな心配りは、亡くなった母親から教わったものだ。
冷えたガラスコップで冷えたビールをうまそうに飲み干す父親に、3回程の勺を繰り返した少女は、すぐに立ち上がって台所に向かい、ごはんをよそって父親に手渡した。こうして今夜も下町のボロアパートの一室で、しばらくの間だけは、ごく普通の父娘の団欒が続くのである。
そしてこの時間こそが、十四歳の少女にとって、何物にも代えがたい最も大切にしたい唯一の「幸福(しあわせ)」だったのである‥‥。
そして夕食後―――。
ちゃぶ台の片付けられた居間の真ん中にゴロリと横になって、父親は扇風機の生ぬるい風に当りながら、テレビのプロ野球中継をずっと見ている。さしてひいきの球団がある訳ではないのだが、時代劇のない曜日は、彼には見るべき番組がまったくないのだ。
実は居間にゴロ寝する父親は、あたかもテレビを見ているようなふりをして、台所で洗いものをしている娘の様子を、先ほどからチラチラと伺っていた。最近特に丸みを帯び始めた娘の後ろ姿を見ながら、自然と彼の顔は緩んでしまっている。黄色いキュロットスカートからしなやかに伸びた娘の長くて白い脚だけが、薄暗い台所の中で一際輝いている。
ようやくと水音が止まり、娘がエプロンを外しながら居間へと戻ってくる。すると―――
「おい千秋、部屋に布団を敷いとけ!」
父親は、居間に腰を下ろそうとする少女に一息つく余裕すら与えずに、そう命じた。横柄な言葉遣いだ。
「うん‥‥」
父親のその言葉に、少女のいつもの明るい表情に少しだけ影が差す。それでも千秋は、ゴロ寝で居間を占領する父親を跨がないように気を使いながら、奥の部屋へと入っていった。
実は奥の四畳半の部屋は、一応は彼女の部屋となっている。が、そこにプライバシーなど存在しない。なにしろ、彼女の部屋を通らなければ、トイレや風呂場に行けない間取りになっているからだ。そもそもこのアパートは、単身者向けの貸し部屋なのである。
千秋は父親に命じられたまま、自分の部屋の押入れから布団を引っ張り出している。そんな少女の部屋は、彼女の学習机や本棚が置かれ、とても窮屈な空間である。飾り気のまったくない土塗りの壁には、ところどころにヒビが走り、板張りの天井には、雨漏りした痕跡らしい黒いシミが無数に点在している。
が、そんな部屋の中にも少女の生活を伺わせるものもある。壁にハンガーで吊るされている中学校の制服だ。既に夏服に衣替えしているので、白いブラウスと紺のスカートの組み合わせである。その白いブラウスの襟元に彩りを添える細目のリボンは、少女の学年を表す青色のものである。
そして、やはり年頃ゆえに周囲に見られるのは少し恥ずかしいのだろう。部屋の隅には少女の下着類の洗濯物が吊るされている。既にスポーツブラは卒業したらしいが、白くて小さ目のブラはAカップ程度のサイズである。が、その真横に並ぶ白いパンティーは、もう「子供パンツ」ではない。木綿やナイロン製の白いものばかりであるが、いかにも清楚感溢れる彼女が身に付けるには相応しいものばかりなのだ。
そんな思春期の少女にとっては余りにも侘しすぎる狭い空間に、千秋は額に汗を滲ませながらも、せっせと寝具の準備を続けている。身体が小さい故に、まるで布団と格闘しているような滑稽ささえも感じられてしまう。
ところが隣部屋にいる父親は、実にのんびりと構えている。娘に寝る準備を命じたままに、今もゴロ寝の態勢だ。ほろ酔い加減でタバコをくゆらせながら、時折、開いたままのふすまの向こうに、娘が布団を整えている様子を伺う。
そして突然、父親は「バッ」と元気良く起き上がった。そのまま台所へと向かい、喚起窓を完全に締め切ってしまった。その足で今度は少し開けていた玄関も完全に締め切り、鍵をかけてしまう。
ただでさえ風の通りの悪いこの部屋にエアコンは付いていない。アパートの配線が古くて、エアコンを取り付けるにはとても電力が足りないからだ。しかし、たとえ蒸し暑かろうとも、アパートの廊下側に面した台所と玄関のガラス戸は、開けっ放しにしておくわけにはいかなかった。階段のすぐ手前の端部屋なので、このアパートの二階に住む他の住人たちが、必ず自分たちの部屋の前を通るからだ。こんな劣悪な環境で、年頃にもなりつつある少女は、今年も暑い夏を迎えなければならない。が、そんなことに頓着する父親ではなかった。更に娘の手間を増やすように、居間に無造作に衣服を脱ぎ散らかしていく―――。
梅雨明けも間近なこの季節、やにわに部屋の中にこもり始めた蒸し暑さを、その十四歳の白い素肌にムシムシと感じつつも、少女は布団を整える手を決して休めようとはしていない。次第に少女の白いTシャツが汗を吸い始め、くっきりとブラのラインを浮かび上がらせていく。
やがて居間にいる父親の耳に「ポンポンポン」と娘が布団を軽く叩いて、敷布団の中で縮んだ綿を解して整えている音が届いた。それは少女が布団を敷き終えた時の習慣である。
父親はその音に敏感な反応を見せる。ほろ酔い加減の赤黒い顔をいやらしそうに綻ばせながら、電源が入ったままの扇風機を片手に持ち、娘のいる四畳半の部屋へと足を踏み入れていく。
父親は部屋のすぐ脇の、彼女の学習机の上に扇風機をセットすると、たちまち居間と部屋とを仕切るふすまを完全に締め切ってしまった。
空気がすぐによどんでしまうような余りに狭い娘の部屋―――。まったく飾り気のない土塗りの壁やくすんだ板張りの天井―――。そんな窮屈な場所に少女は、父親に命じられるがままに、何と敷布団を折り重なるように二枚も敷いていたのだ。
そして、愛らしい面影を色濃く残した十四歳の少女は、軽装に身を包んだその小さな身体を丸めて横たえたまま、敷き終えた布団の中で、パンツ一枚だけとなった父親の接近を許していったのである‥‥。
――― 千秋にとって「努力の長い夜」が、今夜もこうして始まる ―――
《注意》
この物語はすべてフィクションであり、登場する如何なる人物、団体、国家、人種、地名及び地域等、すべてが架空のものです。また、男性にとって有利とも受け取れる女性の心情に関する心理描写、及び身体機能の記述は、すべてが事実と異なる誤ったものです。
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